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3月15日靴の記念日トークライブ「靴の黄金時代と私の青春時代/語り継ぐ靴文化」レポート  

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だいぶ時間が経ってしまいましたが、 今年(2017年)3月15日に東京・浅草橋にて行われた、3月15日靴の記念日トークライブ「靴の黄金時代と私の青春時代/語り継ぐ靴文化」に参加させていただいたときのレポートです。

3月15日靴の記念日トークライブ「靴の黄金時代と私の青春時代/語り継ぐ靴文化」
(フライヤー/シューフィル

本トークライブは、靴の記念日とされる3月15日に、靴業界のはじまりから今日までの歴史を振り返りながら、業界の最前線で活躍されてきた方々にお話いただくイベントで、シューフィル主催のもと参加費無料で行われました。

3月15日は靴の記念日
明治3年(1870年)3月15日、幕末に政商的活動をしていた西村勝三が、築地入舟町(現在の中央区入舟町)に日本初となる製靴工場「伊勢勝造靴場(いせかつぞうかじょう)」を開き、靴産業がはじまったことで、3月15日は「靴の記念日」とされています。

【講師】
稲川 實 皮革産業資料館副館長
熊谷 温生 リーガルコーポレーションOB
福原 一郎 大塚製靴OB

【後援】(一社)日本皮革産業連合会

開催のあいさつ
開催の挨拶をするシューフィル代表で浅草ものづくり工房マネージャーの城一生さん、福原一郎さん(大塚製靴OB)、熊谷温生さん(リーガルコーポレーションOB)、稲川實さん(皮革産業資料館副館長)
写真左より、開催の挨拶をするシューフィル代表で浅草ものづくり工房マネージャーの城一生さん、福原一郎さん(大塚製靴OB)、熊谷温生さん(リーガルコーポレーションOB)、稲川實さん(皮革産業資料館副館長)。
また、本イベントを後援された日本皮革産業連合会の岩崎幸次郎会長(リーガルコーポレーション代表取締役)からも挨拶がありました。日本皮革産業連合会は、素材としての皮革および皮革製品の製造から販売・卸までの各業界を横断的に包含した総合団体で、約30年前に自由化対策で発足されたのだそうです

稲川實さん(台東区皮革産業資料館副館長)
皮革産業資料館副館長の稲川實さんの講義
皮革産業資料館副館長の稲川實さんの講義。 写真は稲川實さんと藤井財八郎さん(リーガル資料館館長)。
靴産業と皮革産業のはじまった時代背景を解説。特に、皮革・履物の製造創成期の草分け、弾直樹(だんなおき/十三代目弾左衛門)と西村勝三について詳しく説明くださいました。

弾直樹と西村勝三
江戸時代より皮革の利権をもった弾直樹は優位に皮革製造・靴製造を行っていた。しかし後に利権を失い失脚。西村勝三率いる伊勢勝造靴場(のち桜組製靴)が優位に立つ。最終的には、明治35年同業者4社が合併(西村勝三の桜組が3社を吸収)するかたちで日本製靴(現リーガルコーポレーション)が誕生する。明治40年には日本皮革(現ニッピ)が誕生。失脚した弾直樹だったが、多くの技術者が弾のもとで育ち、後の靴業界・皮革業界の発展に寄与したと稲川さんはおっしゃっていました。

浅草の靴産業
皮革を製造するために大量の水が必要だったため、墨田川のある浅草周辺に工場が造られたことが、浅草の靴産業のスタートだった。第二次大戦で焼け野原になった浅草だったが、靴関連企業はバラバラにならずに再び浅草に集結したことで、浅草の靴産業は維持され現在でも多くの靴関連企業が浅草に集まっている。

日本の豚革
豚革は、軽くて丈夫で通気性が良いため、靴のライニング(裏地)などに重宝されている。ただ外国では豚の皮は肉と一緒に食べてしまうため、ほとんど豚革は生産されていない。日本製の豚革は品質も良く海外から注目されている。(関連レポート記事:豚皮なめし加工、国産ピッグスキン豚革製造の山口産業工場見学

稲川實さん自身の歴史
兄がミッドウェー海戦で戦死。
昭和22年、叔父が婦人靴メーカーに入社し製甲を担当。のちに自身も靴業界へ、主に婦人靴の製造に携わる。
昭和27年ごろ、接着剤探しには苦労した。接着力があり変色しない接着剤を探しまわったあげく、ようやく見つけたのが、べニア板で飛行機を作るための接着剤だった。当時圧着機もなかったため、自転車のチューブで靴をぐるぐる巻きにしてソールを圧着した。
昭和35年まで統制法の取締りのため品揃えができず、注文靴メインで素材は服の素材。
当時、女性の給料が月3500円前後に対し、靴の値段は4500円だった。現在の23万円くらいに相当するのではないかと思う。
革のアッパーに革底を付けるとよく剥がれた。素材同士が伸びるためだ。ゴム底の普及とともに生産性が向上した。資材集めに多額のお金を使った。靴販売は問屋の力が強かった。

稲川實さんの著書
「西洋靴事始め―日本人と靴の出会い」


「靴づくりの文化史―日本の靴と職人」



福原一郎さん(大塚製靴OB)
大塚製靴OBの福原一郎さんの講義
大塚製靴OBの福原一郎さんの講義。
福原さんは今年89歳!ミッキーマウスと同じ年齢だそうです。写真は当時のカタログを挙げて説明している様子。

入社から戦後復興
昭和初期、6割の人々が洋服、4割は着物を着ていた。
昭和19年大塚製靴に入社、文化担当。当時、大塚製靴では海軍の靴を製造していた。短靴、編み上げ靴、半長靴(はんちょうか)など。製法はグッドイヤーウェルト式製法
昭和20年空襲で被害のち8月15日終戦。
戦後当初、靴のデザインの参考になるものが乏しかったため、洋書を古本屋で買って切り取ったり、銀座の洋品店を見て回ったり、映画を観て参考にした。「デザイン」という言葉もなく「意匠」と言っていた。昭和27年、神田文化服飾学院に「デザイン科」ができる。
足の機能性は、東京大学の人類学の先生に教わった。
エリザベス女王が来日したとき、女王は4日間に11足の靴を履いた。靴を「TPO(時と場所と場合)」によって履き分ける文化を目の当たりにした。

靴の特徴「A・B・C」
America(アメリカ)・・・大量生産、丸いトゥ(つま先)
British(ブリティッシュ/イギリス)・・・ノーザンプトン、ロンドン
Continental(コンティネンタル/ヨーロッパ)・・・婦人靴がメインのフランス、革が丈夫なスペイン、海外でも人気のイタリアなど

大塚製靴では美智子妃殿下の靴を15足作った。サイズは23.0cm~24.0cm前後。
同社代表的なブランドの「Bon Step(ボンステップ)」の意味は、Bonはフランス語でGoodの意。Good Step という意味で名付けた。

熊谷温生さん(リーガルコーポレーションOB)
リーガルコーポレーションOBの熊谷温生さんの講義
リーガルコーポレーションOBの熊谷温生さんの講義。

入社から退職まで
昭和30年日本製靴(現リーガルコーポレーション)入社。紙型製作・木型作製を担当。
当時靴は贅沢品で、靴の普及率は1世帯あたり0.8足だった。(1足を家族で使い回していた家も多かった。)
入社5年生だった昭和36年、米国ブラウン社と業務提携し「リーガル」ブランドの靴製造を開始。材料と仕様書はブラウン社から届くが、すべて英語だったため日本語訳する必要があった。
当時、今で言う「内羽根や外羽根の一文字(ストレートチップ)」は、ありきたりな短靴という意味で「並短(なみたん)」と呼ばれていた。木型は、アメリカ主流の「Dワイズ」は日本では細身だが、ヨーロッパは日本人に近かった。
昭和50年、外貨自由化、渡航自由化。
在職中の1987年、靴と足の機能を書いた「プロフェッショナルシューフィッティング―靴合わせのプロ」を翻訳し発行。国内初となる靴あわせの本格的な解説本だった。
2000年退職。

今後の希望
「3月15日」を時の記念日のように「靴の記念日」として定着させたい。
靴用語を日本語(日本語の略語)として普及させたい。なぜなら、ノーベル賞の日本人受賞者は、すべて日本語で考えるそうだから。

熊谷温生さん翻訳の名著
「プロフェッショナルシューフィッティング―靴合わせのプロ」



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(文・写真/shoepara編集部 大嶋信之)