筆者が以前、靴店の販売員をしていたころ、お求めになった靴をそのまま履かれていかれるお客様が結構いらしたのですが、その中で夕方や夜に買われたお客様から「そのまま履いていくから、靴底にペンで×(ばってん)を書いてほしい」とか、「靴底をマジックで汚してほしい」と言わるお客様がたまにおられました。
その都度、あまり深く考えずにお客様の言うとおりに対応していましたが、ある時お客様になぜなのかと伺ったところ、「昔、夜に新しい靴をおろすと災いが起こると聞いた、だからわざと靴底を汚して昼間におろしたことにする」と言っておられた。
そうか、昔から伝わる何かのおまじないなんだなと思ったのですが、なぜそのようなおまじないがあるのか知りたいとずっと思っていました。
自分なりにいろいろ調べてはみたのですが、
・昔は、靴が非常に高価だったため、1世帯あたりの普及率が1足という時代もあった。(靴1足を家族で使い回していた。)
・幕末、靴は舶来品のため、国事に携わる者は履いてはいけないものだった。(当時の日本人の足元は、足袋、雪駄、下駄といった履物が主流でした。)
など、靴に対するイメージが、現在とは異なる時代だったことはわかったのですが、なかなかこれだと思う理由が見つけられませんでした。
そんな中先日、靴の歴史に大変お詳しく、現在、台東区にある皮革産業資料館の副館長を務められている稲川實さんにお会いする機会があったので伺ってみました。
稲川さんは、このおまじないを聞いたことがなかったようですが、「おそらく、昔は現在のように路面は良くないうえ、靴の靴底(材料)も滑りやすかったのではないか。そのため夜道を新しい靴で履く前に、転ばぬよう靴底に傷をつけて滑りにくくしたのかもしれないね。」とお答えいただき、もしそんな行為が昔あったとしたら、その名残かもしれないなと、ようやく納得がいきました。
昔は、現代のように舗装された道もあまりなかったでしょうし、街灯も少なかったと思いますので、夜道は暗かったでしょう。靴の底材だって、今のようにゴム底は少なく革底が多かったでしょうから、新しい靴はツルツルで滑りやすい。だから、夜に新しい靴を履きおろすときは、靴底をわざと傷つけて滑りにくくした、という可能性は十分考えられます。
(靴の歴史を語る稲川實さん/稲川實「靴の歴史」講義より)
稲川さんは靴の歴史に詳しいだけでなく、自身も靴メーカー(おもに婦人靴)一筋だった方なので、説得力ありました。
あくまで推測ですが、昔、靴が舶来品かつ高級品だった時代、もしこのような風習があったとしたら、迷信として現在に残った理由がなんとなくわかるような気がしました。
ちなみに、もう一つ靴にまつわる言い伝えがあって、新しい靴を室内で履いた場合、一度脱いで玄関先や外に出ること。履いたまま玄関先や外へ出てはいけないというもの。
これには理由があって、亡くなった人の納棺時に、履物を履かせた場合、棺桶をそのまま(履物を履かせたまま)外に運ぶから、という理由で縁起が悪いというものだ。買った靴を履きおろす前に、部屋の鏡の前などでコーディネイトすることも多いと思いますが、そのまま(靴を履いたまま)外へ出てしまわないように注意が必要です。これも、あくまで迷信ですが。
(文・写真 shoepara編集部/大嶋信之)